「ラティンスキー橋、ここから第一次世界大戦が始まった」
「旧市街の中心にある職人街、バシチャルシア」
「バシチャルシアにある水飲み場、セビリ」
「サラエボ中央駅」
2006年10月31日

サラエボ

モスタルから、バスで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボに移動する。
サラエボは、標高約550mの高地にあり、周囲を山に囲まれた盆地で、
1984年には冬期オリンピックも開催された。
しかし、独立戦争では1万人以上の人が犠牲となり、オリンピック・スタジアムのグラウンドは、
戦争での犠牲者を埋葬する広大な墓地となってしまった。
現在でも市内には、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とセルビア人共和国のとの間の見えない境界線がある。
復興はかなり進んでいるようだが、市内にはまだ地雷や爆弾が残っているらしく、
また、到着したのが既に夜だったこともあり、治安の面も考慮し、観光は旧市街だけにとどめた。
右一番下の写真は、ラティンスキー橋。
ここで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、青年ボスニア党のセルビア人青年に狙撃され、
この事件がきっかけで、第一次世界大戦が勃発した。

「戦争で破壊された建物がが散在する」
「モスクのミナレットから、モスタルの街を望む」
「トルコの家」
「石橋を見上げる」
「石橋から飛び込む人は後を絶たない」
「石橋から、ムスリム人地区を望む」
「ムスリム人地区はトルコ色が強い」
「ムスリム人地区」
「モスタルのシンボル、石橋」
「独立戦争で破壊されたままになっている建物」
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クロアチアのドブロヴニクから、バスで、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルに移動する。
クロアチアとボスニアの国境は複雑に入り組んでおり、
バスは、クロアチア→ボスニア→クロアチア→ボスニアと3回も国境を超える。

クロアチアから国境をこえてボスニアに入ると、街の様子は一変する。
クロアチアは経済的にも非常に豊かな国で、
旧ユーゴスラヴィアからのクロアチア独立戦争で破壊された建物の多くがすでに復旧されており、
街は新しくて非常にきれいである。
それに対し、ボスニアは未だ経済的に発展途上の国であり、
旧ユーゴスラヴィアからのボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立戦争で破壊された建物の多くが、
その無惨な姿をさらしたままになっている。
この2つの国の違いを目の当たりにすると、
かつて旧ユーゴスラヴィア連邦人民共和国内で、
経済的先進国であり、民族的にも同一民族が大多数を占めていたスロヴェニアとクロアチアが、
経済的発展途上にあり、多民族がモザイク状に暮している他の共和国をお荷物的存在と見て、
連邦からの独立を考えたのも納得がいく。

また、この2つの国は文化的背景も大きく異なっていることを感じ取れる。
クロアチアは、建物や食べ物、全てがイタリアに酷似しているのに対し、
ボスニアは、トルコの影響を色濃く受け、オリエントの香りが漂っている。
国境を越えただけで、これほどまでに街の雰囲気が変わってしまうとは、実に驚きである。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
2006年10月31日

モスタル

モスタルは、エメラルドグリーンのネレトヴァ川が中央を流れ、
その両岸を美しいアーチを描いた石橋がつないでいる。
モスタルとは、ボスニア語で橋の守人とうい意味らしい。
石橋は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立戦争の最中、1993年11月に破壊されてしまったが、
2004年に再建され、美しいアーチがよみがえった。
橋の上からは飛び込む人が後を絶たず、この日も飛び込む人を見かけた。
ネレトヴァ川を挟んで、橋の東側はムスリム人、西側はクロアチア人と住み分けがされ、
互いの往来はほとんどないという。
また、独立戦争で破壊された建物が、そのままの無惨な姿で散在しており、
街中にある墓地に埋葬されているのほとんど全ての人が、1993年に亡くなっているのを見ると、
1993年当時の戦争の凄まじさが想像され、非常に恐ろしい。

→ オーストリアへつづく