イスラエル

ヨルダンから、陸路、イスラエルに向かう。
イスラエルとの国境にあるキング・フセイン橋は、本当に小さくて小汚い橋だったが、この小さ
な橋が、2国間にとってはとてつもなく長い距離なのだろう。
キング・フセイン橋を渡り、イスラエルの入国検査を受けるが、入国検査は陸路といえどもさす
がに厳しく、X-RAYも配備されていた。
結局入国まで、正味2時間もかかってしまった。
また、パスポートにイスラエルの入国スタンプがあると、シリアなどのイスラム圏の国には再入
国出来なくなる為、スタンプは別の紙に押してくれた。
イスラエルに入国すると、国境の町エリコまで移動し、さらにそこから乗り合いバスを2回乗り継
いで、ようやくエルサレムのダマスカス門に到着。

1997年07月02日

エルサレム

イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の3宗教の聖地である『エルサレム』
左上の写真が、有名なダマスカス門。
この内側がエルサレムの旧市街だ。
旧市街は、細い路地が迷路の様に入り組んでいて、何度歩いても自分の位置を見失う。






1997年07月02日

エルサレム



『嘆きの壁』

キッパをかぶり、黒ずくめの衣装を着たユダヤ教信者が、壁の前で祈りをささげている。
この壁のすぐ向こうが、イスラム教の聖地『岩のドーム』だ。









1997年07月02日

エルサレム


イスラム教の聖地、『岩のドーム』
マホメッドが昇天したとされる聖岩を包み込むように建っている。







1997年07月02日

エルサレム

『ダビデの塔』とエルサレムの旧市街の眺め。
やはり『岩のドーム』が象徴的だ。





1997年07月03日

エルサレム

イエス・キリストが十字架を背負って歩いた道、『ヴィア・ドロローサ』をたどる。
左上の写真が、聖墳墓教会。
この教会は、イエスが磔刑にされたゴルゴダの丘の上に建っている。
左下の写真は、聖墳墓教会内のイエス・キリストの墓。
右下の写真は、十字架から降されたイエスの聖骸に香油を塗った地点だ。




1993年07月04日

エン・ケディ

ヴィア・ドロローサをたどったあと、午後、エルサレムからバスにて、死海の町『エン・ケディ』へ向かう。
バス・ターミナルでエン・ケディ行きのバスを待っていると、警官が大勢現れてみんなを避難させはじめた。
近くの人に聞いてみると、どうやら爆弾らしきものが発見されたという。
近くの商店も全てシャッターを閉め、全員避難した。
しばらくして、単に旅行者が荷物をその場に放置したまま居なくなっただけだという事がわかり、事なきを得るが、蜂の巣をつついた様な大騒ぎだった。
身元不明の荷物が1つあるだけでこれほどまでの爆弾騒ぎになるとは、やはりイスラエル。
危険に対する姿勢が日本とは全く違う。
実にシビアな一面だった。

夕方エン・ケディに到着し、翌日死海に入る。
死海に入ると本当に浮くのか・・・?本当に浮いた!
話には聞いていたが、まさかこれ程までとは。
まるでラッコになった気分で、いつまで浮いてても苦にならない。
この浮遊体験は本当に貴重だ!
しかし塩分の濃度が濃すぎて、少しでも口に付こうものなら大変だった。



1997年07月04日

エリコ

翌日ヨルダンから帰国する為、ヨルダンとの国境近くにある町『エリコ』まで行く。
エリコまで行くバスが無く、近くの国道で降ろされてしまったので、そこからはタクシーを使った。

『エリコ』は、1993年のオスロ合意以来、パレスチナの自治区に指定されている町で、
海抜下350mと、世界で最も低地にある町でもある。
また、紀元前7800年の城壁跡があり、世界最古の要塞都市とも言われている。
低地の為非常に蒸し暑く、昼間はほとんど人の姿が見られなかったが、
日が沈んでからは活気づいてきた。
この町で、パレスチナ人に薦められて水タバコを吸う。
水タバコは非常に軽く、タバコを吸ってる気は全然しなかった。



7月5日、翌日ヨルダンのアンマンから帰国の途につく為、イスラエルのエリコからヨルダンの国
境まで向かう。
しかしこの日はユダヤ教の安息日(シャバット)にあたり、公共の交通手段が全てストップして
いた。
しかも、シャバットの日は、国境の検問所も午後には閉まってしまうという。
タクシーだけは利用出来たのでタクシーにて国境を目指すが、運ちゃんが値段をふっかけてき
たのに腹をたてて、国道の途中で降りてしまった。
国道で他のタクシーを拾うつもりであったが、全く来ない。
タクシーも来なければ、シャバットの為、当然バスも来るはずもない。
結局移動手段が確保出来ず、やむなくヒッチ・ハイクをするはめになる。
まさか生まれて初めてのヒッチ・ハイクを、ここイスラエルでやる事になるとは・・・。
国道でしばらくヒッチ・ハイクをしていたが、いっこうに停まってくれる車も無い。
ヒッチハイクの難しさを痛感する。
このままでは国境を超えられない!
しかも今日ヨルダンに入国しないと、明日の便には当然間に合わない。
と、少しあせり出した時、都合よく農道からぶどうを運び出していたトラックがそろそろと国道に
出てきた。
これ幸いとばかりにそのトラックの前に飛び出し、手を広げて強引に停め、なんとか国境まで
乗せてもらう事に成功。
しかも積荷のぶどうまでご馳走になってしまった。
感謝、感謝である。
どうなることかと思ったが、無事、ヨルダンに再入国出来た。

イスラエルを旅して感じた事は・・・
ユダヤ人はパレスチナ人に対して強い偏見を持っている!
居住区が違うのはもちろんの事、バスなどの交通手段も全て別。
パレスチナ自治区に行くのに公共バスは無く、パレスチナ人の乗り合いバスのみ。
ユダヤ人にパレスチナ自治区への行き方を尋ねるだけで、嫌な態度をされる始末。
もちろん貧富の差も歴然だった。
また、私が接したパレスチナ人は皆暖かく、親切だった反面、
ユダヤ人には冷たく接せられる事が多かった。
イスラエルのパレスチナ人が、貧しく、差別を受けながらも、
皆逞しく生きている姿に私は共感した。

1948年のイスラエル建国の経緯の理不尽さ、
その後のアメリカのダブル・スタンダード、
そして昨今のパレスチナ人虐殺・・・。
苦境の中必死に生きていくパレスチナ人に、
パレスチナ国家の建国をせつに願う。

                                        → ヨルダンへつづく

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