チュニジア (2004.09.16〜09.27)

9月の連休でどの便も軒並み満席だった為、パリまでは日本航空とエール・フランスの両方で
発券し、また、パリからはチュニジアとモロッコのどちらでも行ける様、エール・フランスでチュニ
ス行きとカサブランカ行きの両方を発券していた。
また、直行便が乗れない時の事も考え、パリまではバンコク経由の航空券も発券していた。

9月16日、各種航空券を携え成田空港へ。
キャンセル待ちの結果、日本航空のパリ行きに、運良く最後の一人で乗ることが出来た。
パリで、エール・フランスのチュニス行きに乗り継ぎ、無事チュニジアへ。

2004年09月17日

カルタゴ

チュニスから、TGMと呼ばれる郊外電車で『カルタゴ』へ行く。

『カルタゴ』は、紀元前8世紀から2世紀にかけて、地中海で栄華を誇っていた国家である。
しかし、イタリア半島を統一し、地中海に乗り出して来たローマ帝国との
4回にわたるポエニ戦争で敗北し、滅亡してしまう。
現在のカルタゴは、静かな高級住宅地となっており、
点在する遺跡のほとんどがローマ時代のものである。
カルタゴの時代の遺跡は、僅かに、「トフェ(ポエニ人の墓地)」と
「ポエニ時代の住居」ぐらいしか残っていない。

「アントニヌスの共同浴場」、「カルティエ・マゴン」、「ローマ人の住居」、
「ローマ劇場」、「カルタゴ博物館」、「ポエニ時代の住居」、「サン・ルイ教会」、
「パレオ・クレティアン博物館」、「古代カルタゴの港」、「トフェ」、「円形闘技場」と廻る。

「アントニヌスの共同浴場」

「アントニヌスの共同浴場」

「ローマ人の住居」

「ポエニ時代の住居」

「トフェ」

カルタゴの遺跡はかなりの広範囲にわたっており、
自力で全部見ようと思ったら、まる一日はかかる。
ただし、カルタゴの遺跡はどれも
ことごとく荒廃しており、
ほとんどが原型を留めていない。
歴史的価値の大きさはともかくとして、
見た目の派手さは全く無いので、
見応えとしてはいまひとつである。



「アントニヌスの共同浴場」

「サン・ルイ教会」

「古代カルタゴの港」

「円形闘技場」



2004年09月17日

シディ・ブ・サイド

カルタゴを見たあと、TGMで『シディ・ブ・サイド』に行く。

『シディ・ブ・サイド』は、南地中海に面した岬の丘の上にあり、
チュニジアンブルーと真っ白な壁が映える、チュニジアで最も美しいと言われる町である。





2004年09月18日

ケロアン

チュニスから、ルアージュ(乗り合いタクシー)で『ケロアン』へ行く。

『ケロアン』は、チュニスから南165kmの内陸部に位置する都市で、
北アフリカにおけるイスラム発祥の地である。
アグラブ朝、ファティマ朝、ズィーリ朝と歴代のアラブ王朝の首都として栄華を極め、
イスラム世界では、メッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な聖都であり、
ケロアンへの7回の巡礼は、メッカへの一度の巡礼に値すると言われている。

メディナ(旧市街)を散策した後、「ビル・バルータ」、「グランド・モスク(シディ・ウクバ・モスク)」、
「アグラブ朝の貯水池」、「3つ扉のモスク」、「シディ・サハブ霊廟」と廻る。

「ビル・バルータ」は聖なる井戸で、
脇につながれたラクダが、井戸の周囲を歩くと、
ロープで水が汲みあがられる仕組みになっている。
「シディ・サハブ霊廟」は、マグレブで最も美しい霊廟と言われ、
壁、床、天井といたる所に、色鮮やかなアラベスク模様が見られる。

「ケロアンのメディナ(旧市街)」

「グランド・モスク(シディ・ウクバ・モスク)」

「アグラブ朝の貯水池」

「ビル・バルータ」

「グラド・モスクの回廊」

「シディ・サハブ霊廟」



2004年09月19日

エル・ジェム

ケロアンから『エル・ジェム』に向かうが、
『エル・ジェム』行きのバスが無かった為、一旦、スースまでバスで戻り、
さらにそこからバスを乗り継いで、『エル・ジェム』まで行く。

『エル・ジム』には巨大なコロセウム(円形闘技場)がそびえ建っており、
その保存状態は、本家であるローマのコロッセオをより良いと言われている。
コロセウム中央にある通路の天井には、
おそらく落下防止の為であろうと思われる金網が掛けられているのが非常に残念だ。

エル・ジェムを見たあと、スファックス、ガベスとルアージュを乗り継ぎ、『タタウィン』まで行く。





2004年09月20日

タタウィン

タクシーをチャーターし、「クサール・ハッダダ」、「シェニニ」、「ドゥィレット」、
「クサール・ウレド・デバブ」、「クサール・ウレド・スルタン」と廻る。

クサールとは、ゴルファと呼ばれる倉庫が何階にも重なって出来た建物で、
実に不思議な形をしている。
昔は人の住むところではなく、穀物などを保管する倉庫として使われてきた。
てっぺんに近い壁に枝が突き出ているが、これは大きな袋を上の階に運ぶ為、
ロープをかけるのに利用していたそうだ。

「クサール・ハッダダ」は、映画『スター・ウォーズ』で、ルークの故郷として撮影に使われた場所である。
ここだけは他のところからかなり離れた場所にある為、非常に行きづらいが、是非とも訪れたいところだ。

クサール巡りをしたあと、ルアージュでガベスまでもどり、
そこからルアージュを乗り継いで、『ドゥーズ』まで行く。
当初は、北アフリカの先住民族ベルベル人の洞穴住居であり、
映画『スター・ウォーズ』でバーのシーンが撮影された場所でもある『マトマタ』に移動するつもりであったが、
時間が無いと判断し、残念ながら『マトマタ』は諦め、『ドゥーズ』に向かう事にした。

「クサール・ハッダダ」

「クサール・ハッダダ」

「ジェニニ」

「ドゥィレット」

「クサール・ウレド・スルタン」

「クサール・ハッダダ」

「クサール・ハッダダ」

「ジェニニから見た風景」

「クサール・ウレド・デバブ」

「クサール・ウレド・スルタン」



2004年09月21日

ドゥーズ

『ドゥーズ』は、サハラの大砂丘への入り口となる町だ。
町から数kmほど出れば、サハラ最初の砂丘が見られる。
ここからラクダに乗り、サハラ砂漠一日ツアーに行く。





2004年09月22日

ガベス
ドゥーズから、ケビリ、ガベスとルアージュを乗り継ぎ、
チュニスまで戻る。
左の写真は、この旅で3度お世話になった、
ガベスのルアージュ・ステーションだ。



2004年09月23日

ドゥッガ

『ドゥッガ』は、アフリカを代表するローマ遺跡である。
「劇場」は、丘の斜面を利用して作ってあり、遺跡を見晴らす絶景のポイントだ。
「キャピトル」は、ドゥッガのシンボル的存在である神殿、
「トリフォリウムの家」は、公営の売春宿だ。

「劇場」

「ローマ人の住居跡からキャピトルを望む」
       
「リビコ・プニック廟」

「キャピトル」

「リキニアの浴場」

「トリフォリウムの家」



2004年09月23日

ブラ・レジア

『ブラ・レジア』は、世界でも珍しい地下住居の遺跡である。
この地方は夏の暑さが特に厳しい為、
夏期は涼しい地下に、冬期は1階に移って暮していたとの事。
地上に大きな建造物があまり無いため、一見地味な印象を受けるが、
地下住居の床は色鮮やかなモザイクで飾られている。

「ユリア・メムニアの浴場」

「イシス神殿」

「アンフィトリテの家」

「劇場」



2004年09月24日

チュニス

チュニスのメディナ(旧市街)を散策したあと、
メトロ(路面電車)に乗って、『バルドー博物館』に行く。

『バルドー博物館』は、チュニスのルーブルとも言われ、
そのモザイク画のコレクションは圧巻である。

「バブ・バール(フランス門)」
       
「バージルの間」

「チュニスのメディナ(旧市街)」

「カルタゴの間」



9月25日、チュニスからエール・フランスにてパリまで移動する。
パリで、エール・フランスと日本航空の成田行きの直行便を3便キャンセル待ちするが、
いずれも満席で乗れなかった。
翌日も、翌々日も満席との事で、仕方なく、夜、エール・フランスでバンコクに向かう。
シャルル・ド・ゴール空港では、満席で乗れなかった日本人が、かなり見受けられた。
9月26日、昼にバンコクに到着すると、一日空港で時間を潰し、
夜、日本航空の成田行きのキャンセル待ちをする。
当初、満席で乗れないと言われたが、最後の最後でエグゼクティブ・クラスに空きが出て、
乗ることが出来た。非常にラッキーだった。しかも、エグゼクティブ・クラスとは。
9月27日、早朝、無事成田到着。

今回のチュニジア旅行は、見所一つ一つをとってみると、どれも周辺国の同様なものと比べ、
やはり見劣りしてしまうのは否めない。
ローマ時代の遺跡、地中海リゾート、イスラム建築、サハラ砂漠、いずれもしかりである。
しかし、それら数々の見所が、一つの国に集まっているのはやはり魅力であるに違いない。
また、どんな田舎町でも、地方の国道でさえも警察官を配置しており、非常に治安がいい。
英語はほとんど通じなかったが、交通機関も充分だし、非常に旅行し易い国であった。


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