ウズベキスタン (2004.04.28〜05.07)

ゴールデン・ウィークに休みが取れる事となり、急遽ウズベキスタンに飛ぶ。
先月末の首都タシケントでの連続自爆テロ、ブハラの民家での爆弾事件など、このところ物騒
な話題が多いウズベキスタン。
先日の日本人人質問題など昨今の世界情勢を考えると多少躊躇されるが、外務省の渡航情
報とウズベキスタン政府のIMU(ウズベキスタン・イスラム運動)への徹底的な掃討作戦の成功
を信じ、旅に立つ。

4月28日、ウズベキスタン航空にて、関西国際空港経由、タシケントへ。
タシケントで国内線に乗り継ぎ、ホレズム州の州都ウルゲンチまでへ行く。
さらにそこからタクシーで、ホレズム帝国の都『ヒヴァ』へ。

2004年04月29日

ヒヴァ

「カルタ・ミナル」

「クフナ・アルクのアイヴァン」

「クフナ・アルクの展望台からの眺め」

「イチャン・カラの城壁」
ヒヴァの見所は、
「イチャン・カラ」と呼ばれている城壁の内部。

青と緑と白のタイルで飾られた未完成のカルタ・ミナルのミナレット、ヒヴァ・ハーンの城クフナ・アルク、青いタイルが敷き詰められたパアフラヴァン・マフムド廟が美しい。
ヒヴァで最も高いイスラーム・フッジャ・ミナレットやクフナ・アルクの展望台からの眺めは、イチャン・カラの全景が見れ、その景色も見事だ。


「イスラーム・フッジャ・ミナレット」

「イスラーム・フッジャ・ミナレットからの眺め」

「夕日に映えるムハマンド・アミン・ハーン・メドレセ」



2004年04月30日

アヤズ・カラ、トプラク・カラ、クズル・カラ

ウルゲンチ北東のキジルクム砂漠に点在する、古代ホレズム王国の都城『カラ』。
タクシーをチャーターし、「アヤズ・カラ」、「トプラク・カラ」、「クズル・カラ」の3つのカラを廻る。

タクシーでしばらく走り、アムダリヤ川に架かる橋を渡ると、
あたり一面の大地が真っ白になった。
実はこれは大地が塩で覆われてしまっている為で、アムダリヤ川から潅漑用水を引いた時に、
地中から毛細管現象によって地表に噴出してきた塩との事だ。
塩で覆われた荒涼とした砂漠が延々と続く景色を見ていると、
人災の罪の重さをつくづくと感じさせられた。

「アヤズ・カラ」

「トプラク・カラ」

「クズル・カラ」

「アヤズ・カラ」

「トプラク・カラ」



トプラク・カラの周りの砂漠が、あたり一面塩で覆われて真っ白なのが分かるだろうか。
塩害の酷さを痛感させられる。


3つのカラを廻った後、そのままタクシーで、
シルクロードの中継都市として栄えた『ブハラ』まで移動する。








2004年05月01日

ブハラ

ブハラの町のシンボルは、
茶色一色だが、レンガの積み方を変えて帯状に模様をつけてあるカラーン・ミナレット。
このミナレットの前の広場が美しく、
また、ミナレットからの眺めもブハラの町を一望出来て壮観だ。

「ラビハウズ」

「カラーン・ミナレットとカラーン・モスク」

「カラーン・モスクの中庭」

「アルク城」


ブハラの町の散策は、
ラビハウズと呼ばれる池からスタートし、
マゴキ・アッタリ・モスク、ウルグベク・メドレセ、
カラーン・モスク、アルク城、
チャシュマ・アイユブ、イスマイール・サマニ廟と廻る。





「カラーン・ミナレット」

「ミル・アラブ・メドレセ」

「カラーン・ミナレットからカラーン・モスクを望む」



2004年05月02日

ブハラ

昨日に引き続き、ブハラを散策する。

4本のミナレットを持つチャル・ミナルを見たあと、
ブハラ郊外にあるスィトライ・マヒ・ホサ宮殿に行く。
この宮殿の内部は、この時代には珍しく派手な装飾が施されている。

「チャル・ミナル」

「スィトライ・マヒ・ホサ宮殿」



2004年05月03日

シャフリサーブス

ブハラからタクシーをチャーターし、ティムール生誕の地『シャフリサーブス』に移動する。
ドルッティロヴァット建築群、ジャハンギール廟、アク・サライ宮殿と廻る。
『ジャハンギール廟』には、ティムールが自分のために用意した墓室も残っているが、
結局彼は、サマルカンドに葬られた。
ティムールの宮殿『アク・サライ』は、
現在アーチの部分しか残っていないが、その大きさには驚かされる。

シャフリサーブスを見たあと、そのまますぐシルクロードのオアシス都市『サマルカンド』に移動する。

「ドルッティロヴァット建築群」

「ティムール像」

「アク・サライ宮殿」

「ジャハンギール廟」

「アク・サライ宮殿」

「アク・サライ宮殿からの眺め」



2004年05月04日

サマルカンド

サマルカンドは「青の都」の異名を持ち、ティムールが築き上げたその建築群には圧倒される。
町の中心は、レギスタン広場。
この広場に面して、ウルグベク・メドレセ、シェルドル・メドレセ、ティラカリ・メドレセの、
3つのメドレセが建っている。
その大きさと美しさは、まさに「青の都」の名にふさわしい。
また、ティラカリ・メドレセの礼拝所には金がふんだんに使われていて、まばゆく輝いている。
ただ、ウルグベク・メドレセの北側のミナレットは、何故だか少し傾いていた・・・。

レギスタン広場を見たあと、ビビハムニ・モスク、シャブ・バザール、
シャーヒズィンダ廟群、ハズラティ・ヒズル・モスク、グリ・アミール廟と廻る。

「ウルグベク・メドレセ」

「レギスタン広場」

「シャーヒズィンダ廟群」

「ハズラティ・ヒズル・モスク」

「シェルドル・メドレセ」

「ビビハムニ・モスク」

「シャーヒズィンダ廟群」

「グリ・アミール廟」



2004年05月04日

サマルカンド

異国の地サマルカンドで誕生日を迎える。
グリ・アミール廟で知り合った女子学生が、
家に招待して家族みんなで誕生日を祝ってくれた。

彼女の家は、中庭がジャガイモ畑になっていて、羊2匹に牛を3頭かっていた。
外見はかなりボロかったが、一応、テレビ、ビデオなどの家電製品は揃っていた。
ただ、トイレはボットン式でかなり汚い。
ブハラでも同じ様に民家に夕食を招待されて行ったのだが、
そこの家もここと同じ様に、家はボロかったわりに、
どういうわけだか家電製品だけは揃っていた。

目の前でウズベキスタンの伝統料理「プロフ」を作ってくれ、ご馳走になる。
彼女達5人はスプーンを使わずに手でプロフを食べていたが、
自分はどうしてもそれに馴染めず、やはりスプーンを使った。
みな本当に親切で、快くもてなしてくれた。





2004年05月05日

サマルカンド

昨日に引き続き、サマルカンドの町を散策する。

ウルグベク天文台跡に行った後、再びレギスタン広場に戻り、ウルグベク・メドレセのミナレットに登る。
このミナレットは通常登れないのだが、そこにいた警察官のはからいで特別に登らせてもらった。
ミナレットの頂上には手すりも何もなく、足のすくむ思いだったが、
ここから見たサマルカンドの景色もまた素晴らしかった。

「ウルグベク天文台跡」

「ビビハムニ・モスク」

「ウルグベク・メドレセのミナレットからシェルドル・メド
レセを望む」

「六文義の遺構」

「ハズラティ・ヒズル・モスクからの眺め」

「ウルグベク・メドレセのミナレットからの眺め」



2004年05月05日

サマルカンド

ウズベキスタン最後の夜は、
レギスタン広場で知り合った現地の学生さん達と一緒に食事をする。
彼女達は外語学校に通っている学生さん達で、
外国人旅行者に非常に興味を示し、みなフレンドリーで気さくな人達だった。



2004年05月06日

タシケント

空路、サマルカンドからタシケントに移動する。

クカルダシュ・メドレセ、チョルソー・バザール、ティムール広場、
サイールゴフ通り、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場と廻る。

タシケントは他の町とは違い、かなりの物々しさを感じた。
1ヶ月前のテロの影響であろう、町のいたる所に警察官がいる。
私も警察官から2度も尋問され、
サイールゴフ通りでは警察官の詰所にまで連れて行かれた。
暗い部屋の中で、警察官に取り囲まれて一人尋問を受けるのは、かなり心細かった。

「クカルダシュ・メドレセ」

「ティムール広場」

「チョルスー・バザール」

「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場」



5月7日、タシケントからウズベキスタン航空にて成田に到着。

今回のウズベキスタン旅行は、昨今の世界情勢やイスラム原理主義組織のテロ活動などを考
え、当初かなり心配していた。
しかし実際に旅してみると、タシケント以外の町は全くそんなことはなく、実に平和で穏やかな
国であった。
特に人々が非常に親切で、心から旅人を歓迎してくれる。
家に招待してくれる事も度々あった。
また、家族の絆をことさら重んじ、人の理に尽くすことを第一としているのがよく分かる。
これほど心温まる人々が暮らす国は他に見たことが無いと言っても過言ではない。
今回の旅行は、非常に旅行し易く、これまでになく、人とのふれあいの旅でもあった。
彼ら、彼女達が、これから来るであろう近代化、西欧化の流れの中で、いつまでも今の気持ち
を忘れないでいて欲しいと切に願う。


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